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聞思莫遅慮

誠哉、摂取不捨真言、超世希有正法、聞思莫遅慮。

ここには特に摂取不捨というのを体験の事実と顕して、誠哉、摂取不捨真言超世希有正法と仰せられたのである。摂取不捨は『観経』、希有は『阿弥陀経』、超世は『大経』と、三経の語を取ってある。
 そうして三経の意を総じて挙げて、聞思莫遅慮と仰せられた。聞思ということは『信巻』の末巻に『涅槃経』を引いて、『大経』本願成就の文には唯聞其名号とあって聞思其名号とはないが、聞其名号ということは南無阿弥陀仏という言葉を但徒に聞くのじゃない、名号の意味を聞思するのじゃ、だから、然経言聞者、衆生聞仏願生起本末無有疑心、是曰聞と釈されているのであります。それを今聞思してと仰せられたのであります。仏願の生起本末を聞思して大疑已に無し、今更に何を躊躇遅慮するのであるか。これは前に疑網というに対して今遅慮と仰せられたのであります。
 善導大師の法の深信釈の文に無疑無慮乗彼願力と、総じて無疑、別して無慮という。明瞭に法を疑うという程でないけれども、何か知ら最期の所に二の足を踏むのであります。進んで法を疑うというわけはないけれども、退いて機を疑い心が奮起せぬのであります。心に精進がない。これがつまり遅慮というのでありましょう。これは疑は直接に法を疑うのであり、慮は何か機に就ての疑いというものがあるのであります。
(曾我 量深師『行信之道』47「果遂の誓に於ける喜びの経と悲しみの緯」より抄出)


「聞思」ということ、「遅慮」ということについての曾我先生の言葉を抜き出してみました。本来はここらここらも読んだ方がよいのでしょう。

何も曾我先生の言葉を引かなくてもよいわけで、「誠哉、摂取不捨真言、超世希有正法、聞思莫遅慮。」という文章を読めば、何を聞思し何を遅慮すること莫れかは分かると思います。