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功徳と荘厳 (4)

ところで、この二つの扇が向かい合っているような形の一方の扇形、これは実際の扇ですからこれだけしか開けないのですが、これを如来と喩えるなら、如来は光明無量寿命無量であって、そのおはたらきに限りがないのですから360度開けるということになります。如来のおはたらきを360度開いたならば、もう一方のお念仏の衆生の側もやはり360度開けるのが道理でして、言ってみれば如来とお念仏の衆生が重なり合うといいますか、解け合うのです。あくまでも喩えではありますが、こういうことを「いのち」をいただくといっているわけでして、如来とお念仏の衆生というものが別々にあって、向き合っていると言うようなことではないということが言いたいのです。

如来とお念仏の衆生が重なり合い、解け合うところのこの中心になるのが南無阿弥陀仏である。そこにあらゆる衆生がすくわれる。如来とお念仏の衆生が重なり合い、解け合うというおはたらきである南無阿弥陀仏が本願念仏であって、それを成就して下さったのが阿弥陀さまなのです。本願念仏を成就して下さったから阿弥陀さまはありとある仏さまのすべての特徴というものをすべて円満に具えておられるということなのです、これは逆の言い方をすればということです。

功徳と荘厳ということを考えますと、基本的には功徳が荘厳を生む。ただそれだけではなく、また生まれた荘厳がまた功徳となるということが言えると思います。さて、私たちの実際のところに目を移してみると、どうでしょう。南無阿弥陀仏という功徳の荘厳としての「いのち」をいただいた「念仏の衆生」というあり方とはほど遠いのではないでしょうか。

本来、如来と私たちは重なり合い、解け合っているのであって、その中心にあるのが南無阿弥陀仏なのですが、その本来の姿というものを見失ってしまって久しく、本来の姿がどういうものであるのかということが分からないままに、何かしら自縄自縛というか、好んで自身をすくわれないようにしているかのような状況にあるのが私たちの実際のところなのではないでしょうか。