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功徳と荘厳 (2)

その阿弥陀さまの功徳ということ、それは特徴などという意味ではありませんが、阿弥陀さまが阿弥陀仏となられる因となった正覚という意味での功徳は無量であり、限りがないのです。なるほど私たちのいただく仏説無量寿経に説かれているご本願は四十八なのですが、数の問題ではなく、その中の第十八の願、この至心信楽の願とも念仏往生の願ともいわれる第十八願に功徳が総じられています。その成就によって本願念仏があり、第十一の必至滅度の願果があるのです。あらゆる衆生がすくわれるべき本願念仏という法を成就して仏となられたのが阿弥陀仏であるのです。

特に知恵を頼んだり、あるいは特に慈悲を頼んだりしなくてもよいのです。すべての功徳が南無阿弥陀仏にあります。すべての功徳があるだけでなく、普通であれば私たち衆生が仏や菩薩に頼むわけですが、その頼むということに必ず含まれる清浄でないものをも排して下さり、阿弥陀仏が南無せよとはたらきかけて下さるのです。

そういう南無阿弥陀仏という功徳の宝海が自ずから開くもの、あるいはことという方がいいのでしょうか、功徳の宝海である南無阿弥陀仏に開けてくるのが荘厳であるのではないかと、それこそが真に荘厳と言うべきことではないかと、これは私の独断で、そう思うのです。

これはあくまでも喩えでして、ここに持っておりますこれは中啓といいますが、扇の一種です。この要がもう少し真ん中にありますとより分かりやすいのですが、こうして要の上を開きますと要の下も開けるのです。これは中啓という「もの」ですから、「ものの道理」になるわけですが、要の上だけ開いて下が開かないことはありません。下だけ開いて上が開けないということもありません。

これは要がこの位置にありますので全体としてこういう扇形、扇の一種ですから扇形になるのですが、要がもう少し真ん中にありますと、銀杏の葉っぱを二枚向かい合わせたような形になります。扇が向かい合っている形になります。

たとえば、この上の方を南無阿弥陀仏という功徳の宝海であるとするならば、必ずそれに向かい合って下の方に荘厳ということが開けてくるのです。ものの道理を言うのでなく、ものの道理を喩えとして仏の世界の道理をいうわけで、これも相依相待という縁起というあり方のひとつです。