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功徳と荘厳 (1)

功徳という言葉があります。これは一般には仏の特徴であるというふうに説明されるようですけれども、そんなことなのでしょうか。また荘厳という言葉があります。こちらはお飾りであったり、仏像や仏像を安置するお堂を立派におごそかに飾ることだということですけれど、これもそんなことなのでしょうか。

たぶん今日ある多くの仏教を名乗る教えにあってはそういうことであって、それ以外にないのかも知れません。やれこの菩薩さまは智慧の仏さまで、この仏さまを頼めばもう知恵海の如くなるだろうというようなことを耳にします。またこの菩薩さまは慈悲の菩薩さまであって、頼めば病も怪我もたちどころに快方に向かうだろうというようなことも聞くことがあります。

そうすると、どうも菩薩さまは忙しくて忙しくて大変なご苦労をなさっておられるようになります。そのご苦労が菩薩の菩薩たる所以ではあるんでしょうけれども、大忙しで手が千本あっても足らない。千本あっても足りないから、この狭い島国のあちこちに菩薩さまは数多くおられるようで、それはそれでおおいに結構なことであるのかも知れません。

私どものいただく浄土の真宗では、阿弥陀さまはもしかするとお浄土でくつろいでおられます。静かに黙想して、あるいは昼寝でもしておられるかも知れません。昼寝でもしながら、南無阿弥陀仏と念じておられる。阿弥陀さまが、そのご本願の成就によって法としてのはたらきを現にもっている本願念仏をご自身もまた称えておられると、そういうことであるわけです。

南無阿弥陀仏を成就なさったということは、ご自身もまたそのあらゆる衆生がすくわれるべき法に南無なさったということであって、いわばそこに入り込まれた。本願念仏というものは教えであって、しかしただ教えであるにとどまらず、はたらきであって、そこに衆生がすくわれるのです。阿弥陀さまは静かに黙想でもなさって、すくわれていく衆生をご覧になって南無阿弥陀仏と称えておられるのです。

功徳ということが仏の特徴であるというのなら、阿弥陀さまは特徴のない仏だと、これはものの言い方の話になるわけですけれども、特徴のない仏さまだと言えるのでしょう。特徴というものはやはり際だつところのあるものを言うのでしょうから、阿弥陀さまは際だつところがない、そういう意味で特徴のない仏さまです。

何故際だつところがないのかと言いますと、それはありとある仏さまのすべての特徴というものをすべて円満に具えておられて、特にこれが際だっている、特にあれが優れているなどということがないからです。ですから功徳を特徴だというなら、そもそも阿弥陀仏の世界に功徳という言葉はないと言えるのでしょう。

もともと功徳ということを仏の特徴だと解釈するのが間違いではなかろうかと思えるのですが、では功徳とは何かと言えば、それは仏となる因となった正覚の一つひとつというか、内容であるということになるのではないかと、これは私の独断で、そう思います。

たとえば、応身仏である釈迦牟尼仏ならば、後の人々がその正覚を縁起というようになったのでしょうが、いわば観ずることの一つひとつが正しい智見となり、その一つひとつの智見が縁起、後の人がそう言ったのでしょうけれども、その因縁生起ということを証していたのであって、この縁起という智見が正覚であると言えるように思います。

親鸞聖人は、その釈迦牟尼仏、お釈迦さまが世に出られた所以として、阿弥陀さまのご本願を説くためであったとおっしゃっています。お釈迦さまが仏となられてはじめて仏と仏とにだけ相通じる智見として、阿弥陀さま、そのご本願成就ということが明らかになってきて、それをこそ説かれたのであると親鸞聖人はおっしゃるわけです。私たちに示して下さるわけです。