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如来 (14)

本願念仏をいただくところに無量寿の如来との交際がある私ども衆生は、なるほど確かに一個人は自我というものに目覚める頃からか理知と冠する無明でもって生あり死ありと自縄自縛をするのであって、やがてはやれ生活が立ち行かぬであるとか、子供が言うことを聞かないであるとか、いろいろと細々としたことを苦にする。それはおおいに生死を分段し、苦である性質のないものを苦とすればよい。おおいにとはいかにも言い過ぎるようではあるけれども、懐かしくも思い出してみれば仏説無量寿経に選択の相を示して「令我於世 速成正覚、抜諸生死 勤苦之本。」(大谷派聖典p.13)とある。我々衆生が生死をつくり、勤苦するものであるから、その本を抜かしめんとあのご誓願は建立され、ご本願として成就されてある。ご本願が成就されてあるから、だから生死を分段し、苦を苦としても明るい。何というか、生き生きと生死を生かされ、生き生きと苦を作ってそれを克服し、また苦を作る。なるほど「証知生死即涅槃」(正信念仏偈 大谷派勤行本P.23)ということは如来のご信心をいただいて「生死即涅槃」であることを証知せしめられるということであるけれども、生死を証知せしめられるところに即ち涅槃である。煩悩即菩提もまたしかりで、煩悩を証知せしめられるところが即ち菩提。煩悩を断じるのでない、断じようとしても亀毛のごとく兎角のごときものは断じられない。断じるのでないところに涅槃を得るのである。「不断煩悩得涅槃」(正信念仏偈 大谷派勤行本P.9)、これには「能発一念喜愛心」といういわば条件がある。一念喜愛心の前に能発とある。能ということは衆生にあるのではなく如来にある。他力廻向によって一念に喜愛心をいただくのである。いただくというが、我々にいただく能力も何もないのであって、ただ他力のご回向によって、あくまでも如来のおはたらきによっていただく。如来とは自ら得た正覚の内容を説くことによって、聞く人に正覚を得しめる人(仏)、あるいはその説法、あるいはその説法の内容であるという意味でもあるのでないかと最初の方で言ったような気がするのですが、とりとめもなく話をさせていただいておりますと何を言ったかも定かでなくなってまいりまして申し訳のないことです。今現在説法なさる仏である阿弥陀さまを阿弥陀仏とも阿弥陀如来とももうします。何をもって阿弥陀さまを阿弥陀如来ともうしあげるのかといえば、阿弥陀さまが南無阿弥陀仏と回向して下さるところが如来であるのです。その阿弥陀さまのご回向をただいただくばかりの私の側からしてみれば、南無阿弥陀仏そのものが如来であるのです。