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如来 (13)

はじめから往相・還相ということを言えばよいのかも知れませんが、南無(衆生)→阿弥陀仏(如来)が往相回向、阿弥陀仏(如来)→南無(衆生)が還相回向であって、つまりは本願念仏は如来と衆生との交際であるということができるかと思います。その交際ということは、つまりは相は二つながら体は一つの南無阿弥陀仏、本願念仏のおはたらきであって、この本願念仏というものの成就によって成り立つことであり、また逆に如来と衆生との交際が成り立つことが本願念仏の成就を証するのです。

南無阿弥陀仏によって実際にすくわれる人があり、すくわれた人が南無阿弥陀仏とはたらいていて下さることが、確かに阿弥陀さまのご本願が成就されてあることを明らかにするのですが、これは未だすくわれない衆生である私にとって明らかなこととなるということです。

阿弥陀さまのご本願が確かに成就されてあることを明らかに示していただいたならば、私という衆生はただもう本願念仏によって往生を遂げさせていただく者としてだけあるわけでして、そこにあらゆる衆生が平等であって、平等などということはこういうところにしかまずありません。絵に描いた平等はそこここに散らばって、あるいは大安売りをされているのでしょうが、まず本当のものはここにしかありません。如来のご回向の本願念仏を抜きにして、抜きにすることなどできないものをどうしたものか抜きにして、やれ朋だ同朋だと声高に言うても絵空事の中で絵空事を言うているだけのことです。如来との交際によってはじめて、同じくお念仏もうさせていただく朋、同朋ということがあるわけです。

阿弥陀さまの寿命は無量である。未来の衆生を仮定して、これは阿弥陀仏の寿命に限りがあればすくわれぬから阿弥陀さまの寿命は無量であるという。そんなことではないのでして、南無阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を生む、実にいのちを生むのはいのちでありますが、南無阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を生む、如来が如来を生む、いのちがいのちを生むゆえに阿弥陀さまの寿命は無量であるのであって、円成の南無阿弥陀仏をもって如来と交際する衆生があるゆえに阿弥陀さまの寿命は無量であるのであって、光明もまたしかりであります。