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如来 (12)

かたときも休むことなくこの私にはたらき続けていて下さる阿弥陀さまの本願念仏、私が疲れ果てて休んでいるときでもお酒でもいただいてへべれけになっているときでもはたらき続けていて下さるこの本願念仏というもの、これは法蔵菩薩さまの誓願に端を発し、言いようのないご苦労あってご本願成就のそのときに円成したものであると、一応はともうしますか、理屈を言えばともうしますか、そのように言うことができるかと思います。

私たち誰もが命のご縁をいただいたときには本願念仏というものはいわば完成していたものですから、実は私たちにはその発端も完成も知ることはできないのです。ある先達が円というもので説明をなさっていまして、円というものはコンパスでも使って描くときにはここが始まり、ここが終わりと分かるのですが、できあがっている円というものを見ると、どこが始まりかどこが終わりかも分からない。いや、分からないのではなくて、できあがってしまえば始まりも終わりもないのだとおっしゃっています。

この先達の円というものでの説明は、喩えのようでまったくの喩えでもなく、むしろ実際に近いのではなかろうかと思えるのです。始まりというものが私に分かるのなら私の方から阿弥陀仏に南無することもあり得ないことではありませんが、始まりもなく終わりもないのですから、あくまでも阿弥陀さまの南無阿弥陀仏の方がわたしというものにはたらいてくださって、摂取して下さるのです。それが他力廻向であり、それを私たちの側からはご信心をいただく、お念仏をいただくと言っているわけです。

円ということでもうしますと、あの本願成就の文の「至心回向」を「至心に回向したまえり」といただかない限り南無阿弥陀仏は決して円にはなりません。至心回向が衆生が回向するということであれば、回向するのも衆生、往生するのも衆生であって、そこにあるのは直線ですから、直線は決して円を描きません。如来が至心に回向して下さって、衆生が往生を遂げさせていただく、阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただくというところにはじめて南無阿弥陀仏という円が描かれてくるのです。

円融の至徳の南無阿弥陀仏という本願念仏の成就のところ往相の回向もあれば還相の回向もあるわけで、つまり如来と衆生との間にある南無する衆生を阿弥陀仏のお浄土に生まれさせて下さる方向というか、そのおはたらきが往相であって、阿弥陀如来が衆生に南無せよと招喚なさる方向性、そのおはたらきが還相であり、これはいわば南無→阿弥陀仏と阿弥陀仏→南無であって、相は二つながら体は一つの円成の南無阿弥陀仏、始まりも終わりもない南無阿弥陀仏であるわけです。