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如来 (9)

虚偽を生むようであれば真実ではありませんし、虚偽から生まれる真実というものもありません。嘘から出た誠などという言い方がありまして、世間道、つまり凡夫の世界ではそういうこともあるのかも知れませんが、これは言い方を変えれば虚偽から誠が生まれることがある凡夫の世界、世間道というところは、だから虚偽の世界だと言うことができるわけです。

これはあくまでも喩えですが、冬になりまして雪が降る。朝目が覚めてみると一面雪景色で、真っ白だといいます。真っ白というのは白の他に何もないのを真っ白というのですが、雪景色が本当に真っ白かといえばそうではありません。それを真っ白だというのが凡夫の世界です。またたとえば、種があると言います。野菜の種でも花の種でも何でもよいのですが、種があるといいます。それはそこまで言いはしないけれども、種であるものがあるということ、仏教の言葉で言えば種として常住である、普通にいえば種として不変であるものがあるということになるなんですけれども、その種と言っているものを土に埋めればやがては芽が出てきます。芽が出た頃に土の中を見てみれば種だと言っていたものはないのです。種であるものなら、土の中に埋めても種であり続けなければ種であるとは言えないのですが、私たちは種があると言っています。そこに何らの問題もありません。むしろ芽が出るから種であるいっているわけですが、そういう世界が凡夫の世界であるわけです。

真っ白であるとか、種があるとか、こういうことは単に言葉遣いの問題ではなく、認識ともうしましょうか、事実のとらえ方の問題なのです。凡夫の世界、世間道というところはそれが間違っていたり、曖昧であったりするからこそ成り立っている世界です。常住、不変の種であるものはありませんし、真っ白な景色はありませんが、種であるものがあって、雪景色は真っ白であって何の問題もないところに凡夫の世界、世間道があります。

仏という字はもともと佛と書きます。この佛という字の旁の方の弗というのは打ち消しの意味だそうです。〜ではないという意味で、「不」と同じなのだそうです。ですから、仏というのはもともとは人でないという意味です。どういうふうに人でないのかと考えますと、内面の状態が変わる、心のあり方が人でないということになるかと思います。今もうしております人というのはつまりは凡夫ということですが、心のあり方、事実のとらえ方、認識と言えばいいのでしょうか、それが凡夫とは違うのが仏であるわけです。

今もうしました種の喩えは、ひどく簡単にしてしまったのですが、これは龍樹菩薩さまがおっしゃっていることでして、この龍樹菩薩というお方は「空」という思想でお釈迦さまの「縁起」ということを再認識なさった方です。大乗仏教というものが興るなかで、思想的中心となったのが龍樹菩薩さまの「空」の思想で、大乗仏教ともうしますのは簡単に言ってしまいますとお釈迦さまの仏教に戻った仏教です。つまりお釈迦さまが明らかにして下さった「縁起」ということと、誰もが仏になることができるのであるということを取り戻した仏教です。

この大乗の仏教が興るなかで、お釈迦さまの教えに戻るなかで再発見されたのがお浄土の教えです。再発見ということは、お釈迦さまが明らかにお示し下さっていたものが埋もれていて、ほとんど忘れられていたんだけれども、それがお釈迦さまの教えとして見いだされたということです。西方浄土の阿弥陀如来の教えというものが、お釈迦さまご出世の所以、本懐として見いだされたということです。

唯仏与仏の智見という言葉がありまして、「与」というのは与えるという意味ではなく「〜と」という意味です。仏と仏だけの智見ということですが、仏となられたお釈迦さまは、仏となられてはじめて自身に始まるのでない仏の歴史というものを感得されました。それは阿弥陀仏、世自在王仏をはじめとするいわゆる五十三仏の歴史であり、命の誕生と共にあった仏教の歴史です。