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如来 (8)

実は口称の念仏でも諸行往生の教えでも、何ともうしますかまだ程度はよいのであって、いちばん罪なことは何かといえば、阿弥陀さまのご本願を疑うということです。私たち衆生といわれるものは因というものがつくれると思って因をつくろうとしますし、因をつくればつくったで必ず果を求めます。そもそも果を期待して因をつくるわけです。それで期待した果が得られないとなると、自分はそっちのけにして何も顧みることなく、何か他のものに責任をかぶせにかかります。

お念仏もうして果が得られないと思うと、教えの所為にする。何が南無阿弥陀仏だと、阿弥陀さまのご本願を疑う。挙げ句の果てには神も仏もあるもんかと言い出すわけで、神と仏とを一緒にするのもどうかとは思うのですが、何とも罪の深いことをしておきながら、自分の罪の深さには気がつかないのです。

最近のことでもないのですが、自分自身の姿に気づかされること、普段はまったく思いもしない自身の姿に気づくことが大切だとおっしゃる方が多いように思いますが、普段気がつかない自分自身の罪の深いことばかりしている姿に気がついても駄目なのです。先ほどから「至心回向」ということを衆生が如来に向かって回向するというふうに受けとめるという流れでお話をしているのですが、そうでなくて、如来が衆生に回向して下さるというふうにいただいていても、普段気がつかない自分自身の罪の深いことばかりしている姿に気がつくというようなことは、ある意味では大切なことであるかも知れませんが、駄目なのです。

自分自身の普段は気がつかない罪の深い姿に気がついても、ではそういう自分でない他の人間になれるのではないのです。いろいろと世間の人の話などを聞いておりますと、放蕩の限りを尽くした人がたとえば親に死なれたりして、そういうことをきっかけに心を入れかえて真人間に生まれ変わって、今では家業を継いで立派になっておられるなどということを耳にしたりしますが、それでも駄目なのです。

なぜ駄目なのかともうしますと、これは親鸞聖人が教行信証の行巻に「いわゆる凡夫人天の諸善・人天の果報、もしは因・もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。」と確認されてある通り、人間というものに真実の功徳など微塵もないからです。あるのはみな虚偽、普通の読み方をしますと「きょぎ」となりますが、あるのはみな虚偽でしかなく、真実の功徳など何一つないのです。

功徳ということは、まさしく仏となる因、仏となる種とでも言えばいいのでしょうが、私たちの思う功徳というものすべて虚偽であり、真実の功徳、それによってこそ本当に仏とならせていただくことができるという真実の功徳というものは私たちのところには微塵もないのです。

では真実の功徳とは何であるのか。真実の功徳とはどこにあるのか。私たちがいかに努力をしても持ち得ないし、いわゆる心を入れかえて生まれ変わったとしても持ち得ない真実の功徳というものは、いったいどういうものであるのかということになります。

もうもうすまでもないことかと思いますが、真実の功徳というものは如来の回向にあるのです。これは先ほどももうしたことですが、親鸞聖人は本願成就の文の「至心回向」を至心に回向したまえりと読まれました。そこにはじめて如来が衆生に真実なる信楽をもって回向して下さるのであるという、つまりは他力のおはたらきということが明らかになったのですが、真実なる功徳があるのはこの他力廻向の仏である阿弥陀さまのところにあるのです。