表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

如来 (7)

さて、他力廻向の本願念仏ということなのですが、私は本願念仏といわれるそれ自体が如来であるといただいておりまして、また、回向ということも少なくとも真宗では他力による回思向道の他にないわけでして、他力廻向の本願念仏という言い方は、実は意味が幾重かに重複しているのです。重複しているのですが、他力廻向の本願念仏という方がお伝えしたいことが何かということが分かりやすいかと思いまして、そういう言い方をしております。

話が横道にそれる前にもうしましたように、親鸞聖人は本願成就の文の「至心回向」を「至心に回向したまえり」と読まれ、如来が至心に、真実に回向して下さるのであるということを私たちに明確にお示し下さいました。衆生が如来に向かって至心に回向するのでなく、如来が衆生に至心に回向して下さるのである。ここに起点の違いともうしますか、方向の違いともうしますか、決定的な違いがあるわけです。

衆生が南無阿弥陀仏をもって如来に回向するということであれば、一遍よりも百遍の方がよいのでしょうし、百遍よりは一万遍、一万遍よりは百万遍の方がよいということになるのでしょう。お念仏もうす遍数ということが問題になりますと、それはいわゆる口称の念仏です。口称の念仏は口称の念仏で結構だとは思うのですが、やはり仏説無量寿経のお心ではありません。

私たちが衆生といわれる所以はいろいろと数え上げられないほどもあるのでしょうが、たとえば、南無阿弥陀仏と一日に百万遍お念仏もうして、けれどもそれでも「即得往生」ということが実感できないということも衆生である所以の一つだと思います。「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。至心廻向。願生彼国、即得往生、住不退転。」と説かれてあるけれども、即得往生、住不退転ということが実感できないとなると、どういうことになるのでしょう。

善行といわれるさまざまなものも修する必要があるのでないか、できるだけの善行を修するなかでお念仏ももうすのがいいのでないか、そんなふうなことになるのではないでしょうか。専修念仏の教えを根本にしながら、気がつけば諸行往生の教えにしてしまっているというのも、衆生の衆生たる所以ではないかと思います。