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如来 (6)

変化ともうしますと、お釈迦さまのお弟子さま方の数がどんどん増えていって教団が形成されたのですが、この教団の形成ということに伴って発生したのが戒律です。もともと戒は在家者の道徳規範、律は出家者の生活規範だったようですが、だんだんと戒と律との区別がなくなったようです。区別がなくなっても、戒律とは道徳規範・生活規範です。

この戒律をまもること、特にもともとの律の方ですが、これをまもることが後に「行」とされることがらの起こりではなかったのかと思うわけです。お釈迦さまの入滅後に、お釈迦さまご在世当時の出家者・在家者がまもっていた戒律をまもることにはそれなりの意義があるのでしょう。けれども、道徳規範・生活規範であるものが正覚を得る道となるとは、私にはどうしても考えられません。

事実、最終的に戒律について厳格な解釈をする仏教では在家者は悟りを得ることができないと明確に言うようになりましたし、お釈迦さまの教えを学び、教えとしての「行」を行ずること自体を目的とするようになり、証というものは得られなくてもよいということになりました。教と行だけがあり証がない、悟りが得られなくてもよいということが意味するのは、それはもはや仏教ではないということなのではないのでしょうか。

また、寒中に裸同様の姿で水浴びをしたり滝に打たれたりすることは、戒律に基づくものでもなく、そもそも「行」のなかでも苦行になるのでしょうから、苦行を否定なさったお釈迦さまの仏教とは一切関係のない「修行」であって、仏教の変化とも言えないものであり、仏教でない教えに仏教という名前を冠しただけのものです。

このような結論めいたことを言うために私の独断に基づく考えを長々とお話ししたわけですが、「行」ということについての私の独断に頷けない方もおられると思います。そういう方は「行」あるいは「修行」を取り入れて、それを証を得るための必須条件とする教えは仏教とは言えないという結論にも当然頷けないことでしょう。

しかし、「行」や、あるいは「修行」が仏となるについて必要な功徳を得るために必須であるとしても、本願念仏はあらゆる功徳の円融であり、また、万行の円備であるわけでして、仏となるについて必要な功徳を得るためのあらゆる「行」を法蔵菩薩さまが修しておいて下さるのであり、そこにあらゆる功徳が備わって阿弥陀仏となっていて下さるわけです。

「行」が仏となるについて必要な功徳を得るために必須であるとしても、出家したり、「行」を行じたりすることができない人にとっては本願念仏をおいてほかに証を得る道はないということになります。ここにおいでの皆さんがそれぞれ何をなさってらっしゃる方なのかは知らないのですが、少なくとも出家して、「行」を行じる身である方は、ここで私の話など聞いている暇などないはずです。

私は「行」ということが仏教の根本的な教えであるとは思えないのですが、ここにいらっしゃる方の中に「行」を行ずることこそが仏教であるとお考えになる方がいらっしゃるとしても、その方にとっても本願念仏の他に仏とならせていただく道はないということを確認しいていただきたいと思います。どうも横道にそれた話が長くなりすぎまして、申し訳ないのですが、このこと一つ、本願念仏の他に仏とならせていただく道はないということだけはご確認いただきたいと存じます。