表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

如来 (5)

さて、皆さんに一番お伝えしたい他力廻向の本願念仏ということについてお話しする前に横道にそれるのですが、「行」ということについて、これは私なりのいわば独断による解釈になるのですが、先ほど申しました「お釈迦さま一代の教が円融の至徳であり万行の円備である本願念仏にしくなし」と親鸞聖人がおっしゃることに関係しますので、少しお話ししておこうと思います。

真宗で「行」といいますとまず「大行」であり、阿弥陀さまの本願念仏をいうのですが、私たち教えをいただく者の側からもうしますと、お念仏もうさせていただくことだけがただ一つの「行」ということになります。その「行」にも正定の業と助業とがあるのですが、その他の「行」はすべて「雑行」とされます。

聖道門ともうしますか、自力の教えともうしますか、真宗以外の教えではさまざまな「行」があるようでして、たとえば外国の方が仏教に関心を持たれるのはたいていが座禅を行ずる教えとして仏教に関心を持たれます。この座禅ということだけならまだ分かるのですが、禅宗各派にはそれぞれ座禅以外にも「行」があるようでして、これが分かりません。

テレビのニュースなどで時々僧侶が「修行」している映像が流れたりしまして、たとえば寒中に褌一枚の姿で桶の水を何度も身体に浴びせたり、白衣一枚の姿で滝に打たれたりなさっていることが多いのですが、あれも分かりません。

それぞれの宗派のそれぞれの教えとしてそういった「行」を修することがあるのでしょうが、お釈迦さまは「観想」によって正覚を得られたのであり、お釈迦さまの初転法輪を聞かれた五人の比丘の方たちは聞法によって正覚を得られたのですから、少なくとも仏教の原型ともうしますか、仏教の成立します最初においては観想と聞法が正覚をもたらしたのです。そこには後のほとんどの仏教が取り入れている「行」は一切ありません。

さまざまな「行」を取り入れることを仏教の発展だというなら、お釈迦さまの仏教がもっとも発展していない仏教だということになります。ですから、仏教に変化というものはあるのでしょうが、発展ということはなく、「行」というものは仏教が変化していく中で教えに取り入れられたと考えるべきでないかと思います。