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如来 (4)

さて、仏説無量寿経というお経は上巻・下巻と分かれているのですが、上巻に四十八願が説かれてありまして、その中の第十八願は次の通りです。

たとい我、佛を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。(大谷派「真宗聖典P.18)

次に下巻の最初のところにこのようなことが説かれてあります。本願成就文といわれるところです。

仏、阿難に告げたまわく、「それ衆生ありてかの国に生ずれば、みなことごとく正定の聚に住す。所以は何ん。かの仏国の中には、もろもろの邪聚および不定聚なければなり。十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なることを讃歎したまう。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す。唯五逆と誹謗正法とを除く。」(大谷派「真宗聖典P.44)

ここに挙げました第十八願ならびに本願成就の文をいただくについては、親鸞聖人が教行信証の信巻に確認しておかれる文章が大変参考になるかと思います。
以下の通りです。

「欲生」と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず。かるがゆえに「不回向」と名づくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆえに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに。利他真実の欲生心をもって諸有海に回施したまえり。欲生はすなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに、疑蓋雑わることなし。
ここをもって本願の欲生心成就の文、
『経』(大経)に言わく、至心回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せんと。唯五逆と誹謗正法とを除く、と。(大谷派「真宗聖典P.133)

本願成就文の「心を至し回向したまえり。」というところは、もともと漢文では「至心廻向」となっていまして、これを普通に読み下せば「回向したまへり」とはなりません。事実親鸞聖人以前の先達方も「至心に回向す」と読んでおられましたし、現在でも浄土真宗以外ではそのように読まれるようです。この部分の「至心回向」を「至心に回向す」と読めば、至心に回向するのは衆生です。「至心に回向したまえり」と読めば至心に回向するのは如来です。

親鸞聖人は第十八願の「我が国に生まれんと欲うて」(欲生我国)の「欲生」を「如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。」といただいておられます。そして、「すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。」とある通り、「利他真実の欲生心」の体が至心、つまり真実の信楽であるといただいておられます。

至心・信楽・欲生ということがすべて如来のお心とそのお心の体であるということによって、本願成就文の「至心回向」を如来が至心に回向したまうのであると読まれ、微塵界の有情であり、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心も清浄の回向心もない衆生が如来に回向するのでなく、如来が衆生に至心に回向したまうのであることを明らかにして下さったのでした。

衆生が至心に回向するとは読めなかった、如来が至心、つまり真実なる信楽を体とする欲生心をもって衆生に回向したまうのであり、回思向道して下さるのであるとしか読めなかったという方が正しい言い方なのでしょう。