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空樽の音高し

この仏教の研究というものがいったいどこへ向かって歩いているのであるか、こういうことをよくみなさんに私はお聞きする。まあ自分は年寄りでありますから、老人のいらぬお世話でありますけれども、心からそういうことを憂うるのであります。今日は仏教復興だの、仏教研究の全盛時代だのと言う。そういう声は盛んだが、どうも、空樽の音高し、酒を飲んで樽が空になる、空になる頃みんなが酩酊して樽を叩いて踊り歌う、もう樽の酒は飲んでしまった、だからして酒を飲んでしまって空樽を叩いて踊り歌うのは自然の道理かも知れないけれども、事によると初めから酒を飲まんものまでが、ただいたずらに踊り歌うものもあるのでなかろうか、そういうような疑いがある。(曾我量深師「親鸞の仏教史観」第1講より)

昭和10年に曾我先生がこういうことをおっしゃったのは、仏陀が説いたか説かないか、そういうことだけが問題になっているというようなことについてのことなのですが、「空樽の音高し」「初めから酒を飲まんものまでが、ただいたずらに踊り歌うものもあるのでなかろうか、そういうような疑いがある」とおっしゃることは、別のことにも言えるのではないかという気がします。

あるいは、むしろ酒を飲まないから踊り歌えるようないわゆる付きの浄土真宗ができあがっていて、本当に酒を飲んだもの誰一人いないような状況があるのではないかと思ったりもします。

南無もなければ阿弥陀仏もないままに踊り歌うのを見聞きして呆れる人は多いのでしょうが、私も美酒を飲みたいと願う人がいらっしゃるのでしょうか。

こんなことを言う私の目はやはり外に向かっていて、外のことばかりを見ているのですが、如来のおはたらきだけがおまえはどうなんだということを確認させて下さるわけで、なるほどお念仏もうさせていただくのと同時には南無もなければ阿弥陀仏もないではないかなどと言うことはできません。