表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

寄ってたかって

開山聖人は願成就の文の至心廻向の四字を「至心に廻向し給へり」と読まれた。如来の真実の願心よりして、真実なる名号を以て吾等に廻向し給うのである。「彼の国に生れんと願ずれば即ち往生することを得て、不退転に住する」即得往生住不退転、如来の不可思議の廻向心という大きな、内なる心の転回というものを開山聖人は考えられたのであります。聞其名号信心歓喜のそこに至心廻向という不可思議の事実を内観せられたのであります。そこに他力廻向の信心ということが初めて成立した。開山聖人以前はただ他力を信ずる信心、法然上人も他力を信ずる信心に外ならなかった。開山聖人に至って他力廻向の信心ということが明らかになった。これは本願成就の文に依ってそのことが初めて明らかになって来た。そこに平生業成現生不退ということが初めて成立することが出来るようになったのであります。(曾我量深師講述「真宗の眼目」第一講より)

即得往生住不退転であるからには、往生ということは体失往生ではなかろうものを我々は寄ってたかって間違えてばかりいて、実際には臨終現前というところまで堕としめてしまっているに等しい状況があるのではないかという気がします。

臨終の時にすばらしい仏様方のご来迎を仰ぎ、夢のようにすばらしい処へ連れて行っていただくのであるというようなことを説く真宗の僧侶は一人もいないのでしょうが、ご本願を信じ、お念仏もうすのであると説く人も少ないように思います。

当然の取り次ぐべきことを避け、奇を衒うというとすこし違うのかも知れませんが、何か他の方がおっしゃっていないことを言う、他の方のおっしゃり方と違うことを好むような傾向があるように思います。

結果、取り次ぐべきことが聞く耳の側では廃れ、「念仏などというのは子供だましにもならない」などと受けとめておられる方が増えてきている。そんな気がします。