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教科書の記述

善導大師の『観経』の廻向発願心を解釈なさるについての第一の釈は自力の廻向である。廻因向果と申しまして、世間・出世間の因行の雑多なるものを廻して浄土往生の果に向わしめるというのであります。それは自分の修したところの善根のみならず、他の一切の衆生の修したところの善根を総括して浄土の果に廻向するのでありますが、それから又現在世に於てのみならず過去世に於て、又未来世に於て修すべき善根までも、善と名の付くもの一切を随喜して、それを悉く自分の菩提の為に、往生成佛の為に廻向する。こういうのが廻向発願心の第一の解釈でありまして、これは普通一般の自力廻向であります。第二の解釈は廻思向道、人間の自力の思慮分別、前に述べたる廻因向果の計いを回転転捨して、そうして如来の本願の大道に趣向せしめる、それを廻思向道という。これは他力の廻向である。(曾我量深師講述「真宗の眼目」第一講より)

信心ということについて、他力だ本願力だといわれても、最近ではどうもただ他力を信じる信心にしか過ぎないようになっている向きがあるように思えます。

ご本願を信じるということ、お念仏もうすということが頭で理解するだけのことになっているのであれば、他力回向ということはついには教科書の記述に過ぎないわけです。

教科書の記述をよく覚え、よく理解している者が集まってさらにお勉強会を催している。どうも、最近はそんなふうなことがもてはやされているのではないかという気がしますが、さて、そこに何が生まれるのでしょう。