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同種と同一

浄土真宗は、本願成就の文の聞其名号信心歓喜乃至一念、こう御示しになりまして、南無阿弥陀佛の名号を所行の体として、その廻向により、一念帰命の信心というものを成就開発せしめて戴くことが願成就の文のおみのりであります。その一念帰命というところには、その上に偉大なる一つの心の方向転換の機というものが動いて居る。そういうことを我が開山聖人は願成就の文に依って眼を開かれたのであります。(曾我 量深師 真宗の眼目 第一講)

訳あって曾我先生の「真宗の眼目」を読み返しています。

たとえばお経にしても毎朝お勤めで拝読していると、毎日拝読しているにもかかわらず自分にとっては新しい発見とでも言うべきものがあります。気が急いていて口がただ読むだけのようなときにはそういうことはないのです。

「南無阿弥陀佛の名号を所行の体として、その廻向により、一念帰命の信心というものを成就開発せしめて戴くことが願成就の文のおみのりである」ということなど、もう十分にわかっているつもりでいたのですが、今また新しいです。

最近では「自我がこわされる、くずれる」などというふうに言われることが多いように思いますが、それは上の抜き書きの「心の方向転換」と曾我先生がおっしゃっていることと同一なのでしょうか。

同一ではないとしても同種なのでしょうが、この同種ということが一つ大きな問題ではないかと思ったりします。

時代・社会に相応するということが「同種」を生むとして、しかしながら一念帰命というようなことは、どのような時代であろうと、どのような社会であろうと、人間が人間である限り同一であるはずのことではなかろうかと思います。