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解決

お寺というところは人生の色々な問題を解決できるところではないとおっしゃるのを聞きました。人生の色々な問題を持ちよるところである、自分の人生これでよいのかと、本来持つべき問題に目覚めるところであるというようなお話でした。

質問でもする機会を与えられたのならお尋ねしたかったのですが、司会の立場にある方がそういう時間を設けて下さいませんし、目立つようなこともしたくはありませんのでお尋ねもしませんでした。

すでに阿弥陀さまによって人間のあらゆる問題が解決されてある。阿弥陀さまはご誓願、ご本願の建立成就をもって仏となっておられるのである。

南無阿弥陀仏という法によって、あらゆる人間の問題が解決されてあることを知らしめられ、南無阿弥陀仏とお念仏もうすことによって私のあらゆる問題を解決していただく(=すくわれる)のである。私はだいたいそんなふうにお聞かせいただいています。

お寺というのは道場であるともおっしゃったのですが、それはつまり聞法の場であるということに違いなく、そうであるなら、聞ということは「衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。」と信巻にある通りですから、それによって人間のあらゆる問題が解決されてある阿弥陀さまのご本願を信知せしめられる場がお寺であると言えるのではないでしょうか。

何もお寺という場所に限ったことではないのでしょうが、特にお寺という場所は、人間のあらゆる問題を解決してくださった阿弥陀さまのご本願を信知せしめられ、その具体的なおはたらきであるお念仏をいただき、お念仏もうさせていただく場であるのではないのでしょうか。

なるほど確かに自分で解決するのではありません。しかしながら、お念仏をいただき、お念仏もうしてなお人生の色々な問題を解決することができないのなら、仏教とは何であるのでしょう。お寺という聞法の場は何であるのでしょう。

人間が百人寄って百の問題を持ちよっても、百万人寄って百万の問題に目覚めても、せいぜい「訴訟」が起こるくらいのことで、人間の問題の一つたりとも解決などできはしないでしょう。

解決がついたと思うその解決は解決ではなくて新たな問題であり、新たな問題の種が育って実際の問題となるまでのあいだの無自覚状態でしかないのが人間の知恵であると思います。