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信ということが私たちにあるとすれば、それは信ぜしめられる信であって、突きつめればそれは還るということであると言えるのではないかと思います。

帰命ということはいまさら私が説明するまでもないのですが、私たちからすれば、それは単に頭が下がるなどということではありません。頭が下がって、それでも「私」というやっかいなものと私は一緒に生活をしなければならないわけです。

頭が下がって、下がったままの頭で暮らしてはいけないのが「私」であって、それでも信ということがあるとするならば、それは「私」と一緒の私が無量寿のいのちへ還っていくということである。

還る道々、「私」と私の区別というようなものはだんだんと薄れていくのであって、やがて彼と我との区別もなくなればまぁるいお念仏のなかで南無阿弥陀仏とお念仏もうすだけのものとなっているのではなかろうかと思います。

「私」をみて私がどうのこうのというあいだはまだまだ南無も阿弥陀仏ももうせないことであって、口にしてもそれはただの言葉であって、または知識の披露であって、はたしてお念仏というものではない。

たとえば「正信念仏偈」などに親鸞聖人は帰命無量寿如来 南無不可思議光とおっしゃっていますが、これはやはり「偈」のなかでのことであるのだと思います。