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蜃気楼

信心を「まことの心、また疑いなき心の意。すなわち仏の真実心を疑いなく信ずる心をいう」とすると、それがあたかも私が信ずる心であるような印象を与えるように思うということを昨日書きました。

私が信ずる心であるならば、まず確かな私がなくてはならないことになりますが、確かな私があるとするうちは仏の真実心を疑いなく信ずるというようなことはあり得ないのであって、つまりいたちごっこになります。

そのいたちごっこがすなわち生死輪転の家そのものであるわけで、如来の摂取のなかにいさせてもらうのであればそのままでよいものを、自ら煩悩でもってわが身を縛る家を造ることが「還来」と言われているのです。

速入ということを生死輪転の家に居ながらに考えると、涅槃といわれるような悟りを生きているうちに速やかに得ることができるのか、それともお浄土に生まれて速やかにということなのだろうかと問うようになるのではないかと思います。

そういう問いもまたいたちごっこの一種であるわけで、悟りを得る(た)ときにはすでに私という区別をもとにしてできている概念はないのであって、彼此の別がなければ私もなく、生だ死だということもないのです。

生きているうちか死んでからかと問うこと自体が煩悩のなす事であるわけで、生死輪転の家を一歩も出ないものの問うことであって、お念仏もうして生死を出離させていただくときには実に無意味であるように思います。

・・・この暑さの中、少し道でも歩けば蜃気楼が見えます。蜃気楼を絵に描きなさいと言われて描いたとしてもそれは蜃気楼そのものではなく、蜃気楼として見えているものを描いているわけです。

悟りを得るのは生きているうちか、それともお浄土に生まれてのことかと問うのは蜃気楼を描こうとするようなものです。

蜃気楼で見えているものが実際にあるわけではないうえに、もともと蜃気楼というものには体はないのです。