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寂静無為の楽

速入寂静無為楽 必以信心為能入

昨日も書いたとおり、速入という言葉はここでは還来に対しているのだと思います。生死輪転の家に還来することに対して、寂静無為の楽(みやこ)に速入するということが言われています。

寂静無為ということについては、涅槃であり、涅槃は煩悩のけがれを離れ、静かに澄みきっているから寂静といい、また凡夫のはからいをこえたところであるから無為という、と説明されています。

煩わしい説明をさけて言えば、寂静ということも無為ということも業というものの緊縛から解き放たれるところにあるのであり、無為であるから寂静であって寂静であるから無為であるということが言えると思います。

寂静は無為であり無為は寂静であって、ともに涅槃である。涅槃寂静といい、無為涅槃と言います。聖道門の話ではありませんから速入であって、如来の願力の不思議ということがここにあります。

それを端的に表現しているのがここでは信心であって、その信心を「まことの心、また疑いなき心の意。すなわち仏の真実心を疑いなく信ずる心をいう」とすると、それがあたかも私が信ずる心であるような印象を与えるように思います。

如来の願力の不思議ということだけが、自らつくる業に縛られる凡夫のこの身をまるごとこの身のまま寂静無為の楽(みやこ)に能入としてくださるのであって、如来の願力の不思議によるが故に速入であるわけです。

仏の真実心を疑いなく信ずる心という説明から惹起されるもの、あるいは仮定されるものがもたらすのは、結果的には論理・理論なのではないいでしょうか。

あくまでも喩えですが、頭でっかちの石頭どうしが出会うと頭突きの喧嘩が始まって、互いの石頭は鍛えられるけれども、信心というものは欠片も分からないままである。

石頭どうしをぶつけ合って、互いに頭が割れたならなむあみだぶつももうされるというようなことではないかと思います。