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生死輪転の家

還来生死輪転家 決以疑情為所止

還来という言葉は、ここでは速入に対しているのでしょうが、本来は往生という言葉に対する言葉であるように思います。

生死輪転の家(住処)に還り来るというのは、還り来るというからには生死輪転の家ではなくどこか他にいて還り来るのかと言えば、そうだとも言えるしそうでないとも言えるのではないでしょうか。

如来のご回向の南無阿弥陀仏のなかにいのちのご縁を賜ったものが、自らつくり自ら住まうのが生死輪転の家です。それはしかし、如来の摂取の外にあるのかといえば、そうではありません。

生死輪転の家に住まうものは、それがそのままに如来の摂取のなかにあるのだということを忘れている。それを南無阿弥陀仏ともうして思い出させていただいたのだけれども、やはりまた忘れてしまうのが還来生死輪転家ということでしょう。

生死輪転の家といえども如来の摂取のなかにあることを分からなくさせるのは何かということを突き詰めてつきつめていけば、決するに疑情が根本にある。

疑情とはご本願を疑う心、自力の心と説明されていますが、要するに誰もが普通に持っている普通の心です。自力のはからいのない人などいません。すべて善悪の凡夫であるのです。

生死輪転ということについては、http://www3.biwako.ne.jp/~hide-me/maybe/1-100/maybe56.htmlに「我」は過去・未来を実体として分かち造り、その間に現在を仮設します。過去と未来という二つの輪転機に同時にかけられる現在という一枚の紙に印刷されるのが生死であるというようなことを書いています。

過去は記憶であり、またそれは「生」であり、確かな生ありとする過去に執着すればそこにあるのは後悔だけである。未来は想像であり、またそれは「死」であり、「私の死」ありとする未来に執着すればそこにあるのは不安だけです。

喩えれば、確かな生ありとする過去と「私の死」ありとする未来という二つの輪転機にかかって後悔と不安を表裏に印刷されて出てくる紙が現在であり、そういう現在を産む構造が生死輪転の家であるわけです。

すべての善悪の凡夫人が疑情によってこの生死輪転の家を住処とし、お念仏もうしてもまた生死の迷いに迷うのです。