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憐愍

この時期は、蟻が家に上がってきます。ムカデも入ってくる家ですから、蟻が入れないわけがありません。

時によっては、お内仏のお仏飯にたかります。かわいそうではありますが、下げたときに水で洗い流します。蟻つきのご飯はいただけません。

掃除が行き届きませんので、廊下に命果てた蜂などが落ちているのを放置しておくと、それに群がります。虫の身体を解体して、どこかへ運んでいくようです。

境内の本堂や庫裏へのアプローチの敷石のすき間などに蟻の巣があるのですが、この梅雨の時期など、少しまとまった雨が降ると水浸しになってしまうところです。

水浸しになっても巣には被害が及ばないようになっているのでしょうか。世の中には蟻をペットとして飼っている人もいるようですが、彼らの生活がどんなふうなのか、私はまったく知りません。

憐愍(憐憫)というような感情は、その対象のことが十分に分かっていなければ起こらないに違いありません。一般的に言っても、感情というのは対象物によって引き起こされるものです。

私が蟻に向かって可哀想だなぁと言うとして、そう言われた蟻が群れを成してあんたは俺たちのことをどれだけ知っているのか、何も知らないではないかと応えたとしたら、私には返す言葉がありません。

私が蟻を可哀想だなぁと思うのは、私が蟻を見て、蟻というのはこういうものなんだろうと私が作りあげた観念があって、その観念が正しいか間違いかは別にして、いわば勝手に感情を引き起こされているだけのことです。

人間が起こす憐愍の情というのは、もちろん程度の違いはあるのでしょうが、まったく不完全であり、どこまでも自分勝手であり、自己完結的、自目的的であると言えると思います。

「同情するなら金をくれ」というのがはやり言葉になったことがあったと記憶していますが、あれは様々に意味の深い言葉だと思います。