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ぶつぶつ

「如来は衆生の救わるべき法を成就し給う
         如来は直接の救済主に非ず」とは、曾我先生の真宗の眼目第2講の講題であって、実にすっきりとして、わかりやすい。

第2講な初めを少し抜き出すと(ここから)

六字の名号を体としてそこに一念帰命の信心を見出す。その一念帰命を見出すことに依って、同時に立所に現生正定聚に至る、だから六字の名号は一念発起平生業成の道理で、南無阿弥陀佛の行体の上に、一念帰命、平生業成、現生不退の位に至らしむる。そして満足して、これだけでもう何の不足もない。一念帰命のところに現生不退に住する。現生不退は本願の利益の只半分のものだ、もう半分はお預りだ、こんなふうに考えたら大きな間違である。今有っている方は半分だ、けれどもそれは値打のない小さな半分である、あとの半分があるからしてそれが尊いのである、あとの半分は未来の無上涅槃。現生正定聚の今の半分は位が卑しい、後の半分の無上涅槃は尊いもの、それはお預り、こんなふうに思ったら間違である。
(ここまで、抜き書き)

一昨日書いたことでいえば、現生正定聚と無上涅槃のまえに「自覚」ができあがっている。自覚があって、現生正定聚があって無上涅槃がある。それぞれバラバラにある。何かしら時代社会と共に変化してきた人間の都合で「関」を増やして、どんどん本来の真宗から遠ざかっているような気がします。

何やら公共広告機構の宣伝のコピーではないかと思うような「スローガン」ができあがって、お念仏の「おねん」がなくなっていって「ぶつぶつ」言うだけのような気がします。

ぶつぶつ言うのは、これは人間の愚痴でしかないわけです。