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今日のお講さん

「大悲無倦常照我ということは、だから極重悪人はただ仏のみ名を称えなさいということにつながるのだと思います。つまり、言ってみれば、『極重悪人唯称仏、なぜなら大悲無倦常照我であるから。大悲無倦常照我であるのだから極重悪人唯称仏』ということになるのだと思います」と、6月17日の「随筆かも知れない」に書きました。

今日のお講さんでは、だいたいそんなふうなことをお話ししたのですが、勢いが余ってしまいました。勢い余って何を言ったのかといえば「輪廻」というように言い習わされていることと、そこからの「解脱」ということです。

大悲無倦常照我であるから私というものはいつも如来のおはたらきの南無阿弥陀仏のなかに置いてもらっている。けれども煩悩というものを起こさずにおられないから自身が如来の摂取のなかにあることがわからない。

そういう私の有り様が極重の悪人であって、阿弥陀さまはその悪人をこそすくわずにおかないと、いつもいつも私を照らし護っていて下さるのであり、はたらきかけていて下さるのである。

だから、ただ南無阿弥陀仏と阿弥陀さまのお名号を称えるのであって、勤行本の29ページは、いわば意味的に循環している。循環ということで言えば、私たちの生活というものも循環している。

この頃のように蒸し暑いと暑い暑いと言い、冬の寒い日には寒い寒いと言う。口を開けば言うことはただ二つで、愚痴と自慢。誰かにおだてられでもしたら小躍りするくらいに喜び、貶されでもしたら腹を立てる。そんなことの繰り返しばかりで、それではいかんなぁと思っても、思ったしりからまた腹を立てたり喜んだりしている。

輪廻といえば、六道輪廻というような意味に限定された説明を聞いてこられたかも知れないけれども、法に値遇うということがなく、まったくの悪人である、極重の悪人である自身の姿を思い知らされることがないままに笑ったり泣いたり腹を立てたりばかりしているのもまた輪廻である。

その輪廻というか循環というか、繰り返しを一歩離れて、如来の摂取のおはたらきのなかにおいてもらっている身であって、それはまったくの極重の悪人であるからであって、だからお念仏もうすほか何もないのであるとしっかりと腹の底にいただいてお念仏のなかで生活させていただくならば、それは解脱である。

だいたいこんなふうなことをお話ししたのですが、あとから思い返してみて思うのは、当然のことながら輪廻や解脱というようなことは真宗に端を発する言葉ではないということです。

また、真宗も仏教ですし、聖典にも輪廻や解脱という言葉は出てくるのですが、そういう用語を必要とする思想的土台のうえにお念仏の教えがあるのではないということです。