表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

書いたのが一週間ほど前なのか二週間ほど前なのか、もう忘れてしまいましたが、いのちあるものすべてが「息」をしています。大雑把な言い方をすれば息のあるものが生きているものであるといえるのではないかと思います。

臓器移植の法律制定時に脳死をもって人の死とするということが定められましたが、いまだに何かしら違和感があります。脳が死んでいても息があるうちは死んでいるとは思えないのが普通なのではないかと思います。

人間の死というものは、それは人間の命ということでもあるわけですが、本来は法律によって定めることができる範疇のものではないように思えます。臓器移植を可能にするために法律をひねりだしても臓器の方が正直で、必ず拒否反応があるわけです。

拒否反応とは生体が臓器を拒否することをいうのでしょうが、実は自然の法が人間の法を拒否するということなのではないかとひそかに思ったりします。

さて、息ということには吸う息と吐く息があって、しかし吸う息だけがあって吐く息がないということがない。南無と吸えば阿弥陀仏とはく。南無といただけば阿弥陀仏ははたらいて下さるのであり、また、阿弥陀仏といただけば南無するほかにないのです。

命の限りこのあらゆるいのちの本能は自然に相続するのですが、同時にあえて仏ならぬ身が仏の側からと無理をして言うならば、生あり死ありとする衆生の生のあるところに無生の法の息がある。

生あり死ありとする衆生のないところに法だけがあるということはなく、生あり死ありとする衆生があるゆえに無生の法もまた生きて息をして下さる。法が生きるということは、はたらいて下さるということであって、無生の法の息もまた南無阿弥陀仏であるのです。