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大悲無倦

我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

教学研究所編「正信偈」によれば、ここのところの和訳は

我またかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障(さ)えて見立てまつらずといえども、大悲ものうきことなく、常に我を照らしたまう、といえり。

となります。「あれども、見立てまつらず」「見立てまつらずといえども、常に我を照らしたまう」となるわけで、つまりは大悲が常に我を照らしていて下さることを強調する言い方になっています。

教学研究所編「正信偈」にここについての説明はやはりないのですが、如来の大悲のおはたらきを強調すると同時に、私が煩悩に眼を障えられてそのことに気がつかないということ、気がつこうがつこうまいが如来の大悲は常に私を照らしていて下さるということをおっしゃっているように思います。

私は凡夫であって、常に煩悩にまみれている。如来の大悲が照らしていて下さるという事実に気づくはずもない身である。けれども、そういう身であるからこそ、如来はすくわずにはおかないとおっしゃるのである。だから「極重悪人唯称仏」ということになるのだと思います。

極重悪人唯称仏と、源信僧都がおっしゃる。それはあるいはご自身におっしゃっているのかも知れないけれども、親鸞聖人は真受けにされて、如来の大悲のおはたらき、その不可思議をますます有り難くいただかれている。そこにお念仏がお念仏を生む歴史の証明があるのだと思います。