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勧一切

阿弥陀さまのお浄土は真実報土です。そこに方便化土があるということが言われるのは、お念仏をいただく私の心が真実ではないからです。およそ人間というものに真実はあることがないに違いありません。

正信偈では極重悪人唯称仏と続いていくわけですが、極重の悪人だからただ一心にお念仏もうす他ないものを、極重の悪人だと思わないから雑行に心が動くのでしょう。

しかしながら思いますに、雑行を修するということは、やはりそこに菩提を求める気持ちというか、すくわれたいと願うこころがあるからであって、なにも求めず何も願うことがなければ正定行だ雑行だという区別すらなくなるわけです。

すくわれたいと願うこともなく過ごす人というのは大概がほどよいぬるま湯につかっていいるような状態で、湯が冷めればもう寒くてたまらなくなるわけです。ですから、偏帰安養勧一切とありまして、一切の人にお念仏を勧められる。

寒くてたまらなくなるというと、もう正定行だろうが雑行だろうが何にでもとびつくに違いない。事実、歴史的にみれば観無量寿経という教えが弘まれば他の教えも俗習も一緒にしてお念仏を唱えるようになったわけです。そのあたりのことも曾我先生の「真宗の眼目」に書かれていたように思います。

お念仏の教えが弘まるということには、一概にはよろこべないところもあったわけですが、曾我先生の言葉を借りれば、観経宗が終わりを告げて本来の大無量寿経宗に立ち帰った。それが浄土真宗というものであったわけです。