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獲三忍 (3/20)

私が何かしらの願いをもってもうす南無阿弥陀仏ではなく、如来回向の南無阿弥陀仏が私の口を割って出てくださる。

声を発するのはなるほど私の口であろうけれど、そもそも確かな私などどこにもいないし、その私が所有する口などというものが確かなものとしてあるのではないからには、そこから発せられる南無阿弥陀仏は如来の回向の南無阿弥陀仏である、そういう言い方もできると思います。

ともかく、如来回向の南無阿弥陀仏の一念の後には、韋提希夫人と同じく「三忍」を獲ることになる。ここの「える」は獲るですから、未だ得てはいない。得るならば、即ち法性之常楽を証するということでしょう。

喜・悟・信の三忍を獲るというのですが、韋提希夫人はお釈迦さまの教え、それが具体的には仏説観無量寿経であったのですが、お釈迦さまの教えによって三忍を獲られました。

仏説観無量寿経に示されたお釈迦さまの真意は何であるかといえば、念仏といえば称名念仏であり、称名念仏によって定善散善の善人も凡夫も逆悪の人も等しくすくわれるということであり、このことを明らかにされたのが善導大師であったわけです。

善導大師がもう一つ明らかにして下さったのは、韋提希夫人もまた実業の凡夫であるということでした。我々と同じ実業の凡夫が実際にすくわれていく姿が仏説観無量寿経に示されてある。これらのことについては仏教史観の問題として実者か権者か現生不退の自覚原理としての欲生我国の招喚勅命の前半部分は大いに参考となります。

即証法性之常楽については、同朋新聞の古田先生の説明が分かりやすいと思います。以下の通りです。

「楽」は、苦に対する楽ではなくて、私たちが認識する苦と楽をともに超えた安楽のことを言っておられるのです。