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一念相応-2 (3/19)

教学研究所編「正信偈」の「慶喜一念相応後」の解釈は

万劫の初事(はつごと)と喜びめでる一念の感応となって後

となっています。
また、同朋新聞平成19年12月号での古田先生の解釈は

真実の信心に目覚めさせてもらった人の一念の喜びの心が、本願を発された阿弥陀仏のお心に合致(相応)するならば

とあります。

もちろんここの一念は慶喜の一念ですから、「喜びめでる一念の感応」も「真実の信心に目覚めさせてもらった人の一念の喜びの心」もその通りなのでしょうが、どちらも「慶喜」に重きが置かれていて、「一念」があまり重要ではないかのような感じを受けるのは私だけでしょうか。

厳密に言えば、如来からいただく一念に衆生の喜ぶ心も何もなく、あるのは如来の願心だけであるということになると思います。

つまり、「相応」するのはあくまでも一念である。喜ぶ心が相応するのでない。このことが大事であって、言ってみれば「慶喜一念 一念相応」ということになるのではないかということです。

確かに必ずすくうのであるから、すくわれたいと思いなさいよと願われていたことを初めて知らせていただいてもうすところの南無阿弥陀仏は慶喜の一念なのでしょうが、慶喜の一念であろうが仏恩報謝の一念であろうが、仏の願心に相応するのは一念であって、仏恩報謝の一念は相応しないというのではないでしょう。