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四苦と法印-10 (3/16)

今日の私たちは、いろんなことについての自分の受けとめ方が正しいのかどうかを問い直すことをしなくなっていて、すでに縁起という道理がわからなくなって生老病死だけでなく一切がみな苦であるとしている、その自分の有り様が見えなくなっています。

それは、目に見えて手で触れることができるものは確かなものであって、自分は経験すらしていなくても証明されたことは信じるという科学的なものの見方が染みついてしまっているからだと思うのです。

重力というのですか、そういう力の働きがあって、タバコの箱を持ち上げておいて手を離すと落ちます。持ち上げておいて手を離すとタバコの箱が落ちることは科学が証明しました。だから目に見えなくても重力はあると、働いていると私たちは思っています。

重力と同じではないのですが、目には見えないし、手で触れることもできないけれども、阿弥陀さまのおはたらきがある。むしろ、本当にあると言えるのは阿弥陀さまのおはたらきだけである。南無阿弥陀仏と具体的に現れていて下さる如来のご信心だけが、本当にあって、それこそが本当に信ずべきものである。

これは何によって証明されるのか。何によって証明されれば私たちは信じるのでしょうかと、そういうふうに今の私たちは考えがちなのでしょう。仏教は誰かが証明したことを私が信じるということではありません。阿弥陀さまがすでに南無阿弥陀仏となっておられる、これは証明といえば証明なのでしょうが、その阿弥陀さまのご信心を、私が信じるのでなく、阿弥陀さまからいただくのです。

聞というは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを聞という。私たちはひたすらに聴聞し、ただ南無阿弥陀仏とお念仏もうして仏とならせていただくのである。仏教はこのこと一つを教えているのです。