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お講さん (1/28)

今日のお講さんのお参りは16人。寒いのに朝早くから掃除や準備に来て下さって、それが80歳を過ぎたばあちゃんだったりするもので、申し訳ない思いがします。

私はといえば前日までに華をかえ、お内陣を掃除し、濡れ縁と階段を拭き、目立つところに散らばっている枯れ葉を拾ったくらいです。

真宗の寺というのは聞法の道場であるなどということをことさらに言わなければいけなくなったのは、なぜなのでしょう。

少なくともうちのお寺のお講さんにお参り下さる方々に、寺が聞法の道場であると言っても、特に意味をなさないことなのではないかという気がします。

そう思うにはいろいろ理由はあるのですが、一つには、もう意味を問うまでもなく習慣になっているということがあります。お講さんの日にはお参りしてお勤めをし、お話を聞き、みんなでわいわいと話す。

朝、お日様が昇ったら起きて、歯を磨いて顔を洗う。それを今さらなぜかと問われても答えに困るわけで、もともと理由はあるのでしょうが、もう習慣になっています。それと同じことになっています。

習慣になっていることがよいとかよくないとかではなく、だからお寺は聞法の道場であるということが特に意味をなさないわけです。聞法の場でない真宗のお寺というものが、たとえばどんなお寺なのかが想像できないわけです。

お講さんにお参り下さる方も高齢化が進んでいますので、やがては想像できるようになるのでしょうか、それともそれ以前にお寺がなくなってしまうのでしょうか。