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現実の空論 (1/24)

定散の善は、諸行往生のことばにおさまるなり。この善は、他力のなかの自力の善なり。
(末燈鈔より)

定善も散善もともにそれを修することができるのは善人であり、それらはともに諸行往生である。諸行往生がどうのこうのというのではなく、それ以前に、いわゆる善人でない者はすくわれない。

こんな言い方はおかしいのだけれども、仏教はもともとすくわれない者を作る(あるいは定義するというべきか)教えではない。諸善を修して聖者といわれる人になればすくわれるというのは、聖者になれない人を仮定しないだけの話であって、だから机上の空論ならぬ現実の空論なのである。

凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味というのは、「揺り返し」以前の教えをいったん認めて、そうではなくてという意味になるのであろう。如来の智慧の眼からすれば、人間の区別して言う凡夫も聖者も逆悪の者も謗法の者も斉しく、すべてがすくわれるべき者であるのであろう。

定散の善は自力の善であるとおっしゃる。しかも、それを他力のなかのとおっしゃってある。