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智慧と慈悲 (1/23)

如来の智慧と慈悲というのは、二つ別のものではない。弥陀三尊といえば智慧の勢至菩薩と慈悲の観音菩薩がお脇侍としておられるけれど、阿弥陀さまは阿弥陀さま、勢至菩薩は勢至菩薩、観音菩薩は観音ということではなく、体は一つの阿弥陀さまである。

体は一つの阿弥陀さまの、その相はどうかといえば智慧あり、慈悲ありということである。回向ということで言えば、往相の回向は慈悲であり、還相の回向は智慧であり、それらは二つ別ではない。智慧があって慈悲がない、慈悲があって智慧がないということはない。

如来の智慧だけを、あるいは慈悲だけを取りあげるということは意味がない。けれども意味がないことをしたがるのが無智である者の常で、智慧に重きを置けば人間には不可能な行が予定されるだろうし、慈悲に重きを置けば教えがなくなっていわゆる付きの現世利益ばかりが残るだろう。

自身の無智を知らない凡夫こそが救われなければならない。いのちに始まりもなく終わりもない如来のおはたらきは、その意味で言うなら凡夫の誕生とともに始まりがあった。如来のおはたらきのなかで、ただお念仏もうせばよいだけであるにもかかわらず、煩悩成就に磨きがかかるのがまた凡夫たる所以である。

煩悩成就に磨きがかかると、ただすくわれるだけではすくわれない。ただすくわれて、決してすくわれないと知って、すくわれる。