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地上の一如 (1/22)

仏法の真如とか一如とかいうものは、本来理想の一如ではない、現実の一如である、本当の現実の背影としての一如である。天上の一如でなくして地上の一如である。その意義を明らかにしているのが浄土門である。所が具体的な一如は何時の間にやら天上の一如になって来たのではないかと思います。大権の聖者というものも、唯初から形而上学的に在るのじゃないと思います。
(曾我先生「行信の道」第21講より)

前にも抜き書きしたのですが、非常に意義深い一節であると思い、再度抜き書きしました。

たとえばお釈迦さまも初めから悟った人として生まれてこられたわけではなく、一人の凡夫であったわけで、凡夫であったからこそ道を求められたのです。

成道なさったお釈迦さまにたいして、後に感謝と尊敬をこめて様々な物語が語られるようになったのでしょう。あるいは偉大なる業績を称えるにあたって神秘化もされたのでしょう。

たとえば四門出遊の物語などを読んでそれを解釈しようとする我々は、お釈迦さまの人間としての現実を見落としがちであるのではないかと思います。

同様のことが仏法ということについても起こっていて、浄土教というものは、いわばそれに対する「揺り返し」であったと言えるのであろうと思います。