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善導独明仏正意 (1-18)

観無量寿経に説かれた韋提希夫人を「大権の聖者」とみるか「実業の凡夫」とみるか。これについては曾我先生の「行信の道」第21講などをお読みいただくのがよいかと思います。少し抜き書きしますと

(ここから)
所謂聖道門の、或は『華厳』とか『涅槃』・『法華』とかいう経典の處に立っておいでになる所のお方々は、頭から経典に出ている所のあらゆる人物を、皆大権の聖者であると見られるのでありましょう。それ等の経典の範囲に止っている限り、そういう風にいわれるのが或は当然かも知れません。だが、そういうような立場から『観経』に於る韋提・阿闍世・提婆等を一括して直に皆大権の聖者であると推論するのは、如何のものであろうか。先ず王舎城の大悲劇を直観すべきであります。茲に浄土教の久遠の性格がある。この根本的性格を知らない彼等は、それは実在的に大権の聖者、初から直に独断した大権の聖者、何時の間にやら一種の理想主義者になっているのじゃないかと思うのであります。
(ここまで)

あるいは同朋新聞平成19年7月に掲載された古田先生の「正信偈」にも詳しく説明があったように思います。

ともかく、善導大師は実業の凡夫と見られた。だから、観無量寿経は凡夫のために、苦悩の凡夫が浄土に往生する教えが説かれているお経であり、そこに阿弥陀さまのご本願を説いて苦悩の衆生をすくうというお釈迦さまの本意が明らかになったと親鸞聖人はいっておられます。