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「信」 (12/27)

講談社の「新大辞典」で「信」を調べてみました。信は会意文字で、まさに人の言うことであり、人の言うことにうそ偽りのないことが字源であるとのことです。少し抜き書きします。

字義:まこと。信ずる。疑わない。まことと思う。まかせる。まことに。明らか。明らかにする。知る。慎む。

字源:会意文字。まこと。人の言うことにうそ・いつわりのない義。ゆえに[人偏に口という字]とも書く。また、伸・身に通じる。

人の言うことをうそ偽りのない「まこと」と思うことが信であるというのは、「如来より賜りたる信」ということにつながらないのではないかと思います。しかし、たとえば正信偈の最後の「唯可信斯高僧説」の「信」ならどうでしょう。

ただこの高僧方のお説きになったみのりを信ずべし。この高僧方の明らかに示して下さったお言葉を、疑いなく、まことと信ずべし。これは、なるほどとうなずけます。人の言うことをうそ偽りのない「まこと」と思い、信じる。それが信である。

ご開山は釈尊をはじめ、七人の高僧方の説を偽りのないまことであると信ぜしめられました。歎異抄第2章には「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか」とありますが、こういうところにあるのが信である。

極めて大雑把な言い方をすれば、ご開山は、まず先達のおっしゃることを偽りのないまことと信じられた。そうして、その信じるということは、私が信じるのでなく、先達の明らかにされた真実が私をして信ぜしめるのであるということを事実として感得せられた。

その私をして信ぜしめるはたらきは何かといえば、それが他力である。他力のおはたらきによって、私は信ぜしめられるのである。なるほど信じるのは私であろうけれど、私は信ぜしめられるのである。

如来より賜りたる信こそが真実の信である。この虚仮不実の身が起こす信ではなく、如来より賜りたる信とおっしゃるところに信という字の字源を超えた意味というもの、虚仮不実の身が道具とする言葉では言い表せない真実信を見いだされたのであったのだと思います。