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真仮を知らない (12/18)

道綽禅師はお釈迦さまの教えをすべて聖道門と浄土門との二つにおさめられたと教学研究所編「正信偈」にあります。道綽禅師が聖道門あるいは浄土門をどのように定義なさっていたかは私は知りませんが、正信偈には「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入」とあります。

何度もここに抜き書きで紹介している真宗教団連合編「親鸞」のなかの竹橋太師の「本願」、そこに「親鸞の本願観−真・仮・偽」という一節があり、そのなかに
(抜き書きここから)
自分の力を恃むあり方は「真仮を知らない」(『教行信証』)と説かれている。それは縁起していること(つまり無我であること)を知らず、私がいて、何かをするという実践のあり方であって、それを「聖道門」と親鸞は表現する。
(抜き書きここまで)
という一文があります。

「聖道の証し難きことを決し、ただ浄土の通入すべきことを明かす」ということは、聖道門が証果を得ることができる道であるなら聖道門もよいであろうけれどもというようなニュアンスがあるかと思われます。聖道の証し難きゆえに浄土門に通入すべし、と。

竹橋師が「それを『聖道門』と親鸞は表現する」おっしゃるのは、自力を恃む聖道は縁起していること(つまり無我であること)を知らないあり方だということです。親鸞聖人のおっしゃる聖道門と道綽禅師のおっしゃる聖道門には、その意味するところ、言葉が表す内容に違いがあるということになります。

自分の生かされてある時期が末法であるということと関係なく、竹橋師の言葉を借りれば、聖道門は縁起していること(つまり無我であること)を知らないあり方であり、決してすくわれない。

決してすくわれないこの一人が、決してすくわれないがゆえにすくわれるのは阿弥陀さまの本願念仏によるである。それが親鸞聖人のすわりであったのだと思います。