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遇う (12/16)

値うということは、ただ単にあうのではなく、尊いもの・ことに遇いがたくして遇う、遇いたてまつるということだとお聞きしています。ですから値うという言葉はご本願に遇う、如来のおはたらきに遇う、南無阿弥陀仏に遇うという場合に限るのであろうと思います。

一生の間、仏とも法とも知らない者であっても、つくるところのものはすべてが悪でしかない者であっても、遇いがたくして如来のおはたらき、南無阿弥陀仏に値う。如来のおはたらきによって如来のおはたらきである南無阿弥陀仏に値うならば、阿弥陀さまのお浄土に生まれ無上涅槃のさとりを証することになる。

これはやはり観経下々品のような一種の極限を示すのではないかと思います。極限を示すことによって何を言わんとするのであるかといえば、あらゆる衆生がすくわれるのであるということを言わんとするのであると考えます。

こういうことは教行信証「信巻」にある第十八願の「唯除五逆 誹謗正法」の註釈につながるのではないかと思います。すくわれるはずのない者がすくわれる。だから、すくわれない者はない。ご本願に「不取正覚」があるということは、あらゆる衆生がすくわれるのであるということである。

だから、本当にすくわれなければならないのは、すくわれるはずがないとされる(た)者である。こういうふうに言えるのではないかと思います。

12月14日に抜き書きした曾我先生「真宗の眼目」に一節を借りれば、一種の極限を示すものと思われる観経下々品をそのまま受け取って「権方便的支流が繁栄を極め」ることとなり、「そうして本流が枯れてしま」うこととなったのが中国の浄土教の一面であったといえるのでしょう。

一方、「法然上人は外より促し、我が開山聖人は内より応へて、ここに『観経』宗が終わりを告げて、本来の『大無量寿経』宗というものに立帰っ」たところに浄土真宗が開かれたのであり、それこそは浄土教の真なる宗であったのです。