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如来 (12/8)

阿弥陀さまを仏といただくときは、弥陀と成仏なされた方であり、法を成就なされた本願念仏の仏である。如来といただくときには、やはり南無阿弥陀仏であり、大行たる本願念仏のご回向が即ち如来である。

いまだに自分なりの結論が出せないのですが、曾我先生の真宗の眼目の第2講の題が「如来は衆生の救わるべき法を成就し給う、如来は直接の救済主に非ず」で、実はこれがひっかかるのです。如来ではなく仏はではないのかと。「仏は衆生の救わるべき法を成就し給う、仏は直接の救済主に非ず」であるべきではないのかと。

衆生の救わるべき法が南無阿弥陀仏であり、その法が衆生にあってはただちに本願力回向、還相の仏としての如来である。そうすれば如来が衆生の救われるべき法を成就というのはおかしなことになるのではないかと思うわけです。

あらゆる衆生は如来たる南無阿弥陀仏によってすくわれる。だから、仏は直接の救済主ではないけれど、如来は直接の救済主ではないのかと思うのです。衆生のすくわれるべき法がいくつもあって、そのひとつが南無阿弥陀仏であるというのではありません。それでは諸行往生になってしまいます。

「如来は衆生の救わるべき法を成就し給う、如来は直接の救済主に非ず」なのか「仏は衆生の救わるべき法を成就し給う、仏は直接の救済主に非ず」なのか。これについては、これからもいろいろと思いをめぐらそうと思っています。

阿弥陀さまが如来と示現なされるときには、南無阿弥陀仏である。それはたとえばどこかのお寺の本堂のご木像であり、どこかの家のお内仏のご絵像であり、あるいは我のぶつかり合いから喧嘩の絶えない夫婦のそれぞれの口を割って出る称名念仏である。

夜明けを告げる鳥のさえずりであるかも知れないし、西の空に隠れていくお日様であるかも知れない。お念仏もうす心などどこにもない私に、南無阿弥陀仏がうまれて下さるとき、そこにある言葉にできない何かしらのご催促は、如来の直接のおはたらきであるのです。