表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

南無阿弥陀如来 (12/6)

5月10日に有量・無量と題した文章を書きましたが、その中に「如来とは真実の世界から来たったもの、それははたらきである。それで、南無阿弥陀仏といい、南無阿弥陀如来とはいわない。南無阿弥陀仏がもっとも具体的な如来である。」という一文があり、「南無阿弥陀如来とはいわない」と書いたのが頭に残っていました。

大谷派以外では「南無阿弥陀如来」という言い方も用いられているのでしょうか、本願寺派の学者さんが「南無阿弥陀如来」と書いておかれる文章にでくわして、少し驚きました。そんなことに拘るなと自分に言ってみても、どうしてもひっかかってしまいます。

これは別のことですが、講談社から出ている漢和辞典のようなものを手にする機会があり、少し調べてみました。

まず一つめは「忙」です。立心偏に亡くすと書いて忙しいという、忙しいというのは心が亡くなっている状態だというお話は、講談社から出ている漢和辞典のようなものによれば、漢字の成り立ちからは意味をなしません。

ちなみに、「忙」は「せわしない」というような意味で、「亡(ボウ)」は音符とのことです。

二つめは「偽」です。人偏に為(ため)と書いて偽(いつわり)という、人のため人のためというが、本当は見返りを期待していたりしているから決して人のためではなく、自分のためだというお話は、講談社から出ている漢和辞典のようなものによれば、漢字の成り立ちからは意味をなしません。

ちなみに、「偽」は「いつわり」ですが、いつわりは人為的になされるから「為」が付くとのことです。

こういうことに拘っているとお話は聞けないのでしょうが、お話自体が拘らずにはいられないことから成り立っているのですから、どうしようもなく、やはり拘ってしまいます。

そういうことにどうしても拘ってしまう者の解釈では、「南無阿弥陀如来」は、いわば「南無阿弥陀南無阿弥陀仏」ということになってしまい、意味不明です。