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論のための論 (12/2)

自己陶酔というほどではないとしても、自己完結型の論のための論というものはあるようで、そういう類のお話や文章に接すると、つい、「あんた自身、それでええのか」と思ってしまいます。

何度か紹介した新宗教団連合編『親鸞』のなかの竹橋太師の「本願」には「仏教はこころの教えではない。またどう生きるかを教えるものでもない」とあり、そう言われると、「うんうん」と頷いてしまっています。

少なくとも私は、大きな安堵の中で心豊かな生活をしていくことなど、今までもなかったし、これからもないと感じています。「(いずれの行もおよびがたき身なれば、)とても地獄は一定すみかぞかし。」です。

敢えて真宗では意味を成さない言い方をすれば、信心が足りないせいのでしょう。大きな安堵の中で心豊かな生活をしていくことを願えません。自らの至らなさ、愚かさを思い知らされても、思い知ったと思う自分がいます。その自分を、自分はどうすることもできません。

逆にというか、どこかしらで安堵のようなもの、安堵ではない安堵のようなものを感じている自分をみつけるのは、決して迷いから逃れることはできない、永遠に不完全なあり方から逃れることはできないというようなことを言われた時です。

大きな安堵の中で心豊かな生活をしていくためにお念仏もうしましょうというのでないことは分かっているのですが、お念仏もうせば大きな安堵の中で心豊かな生活をしていくことができるのでもないと思います。