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改悔 (11/27)

改悔というようなことがありますが、これは、人間というか凡夫というべきか、我々は教えをいただいても間違うものだという事実を見とおしています。

それだけなら結構だと思うのですが、どこかしらでそれをすることによって間違わなくなるものだということを前提にしているように思えて仕方ありません。

たとえば前念命終後念即生ということにしても、いくら教えをいただいても、やはり間違うのです。分々段々の南無阿弥陀仏でしかないのですから、前念の命終と後念の即生ということが分断されてしまうは当然で、気がつけばやれ命終だ、やれ即生だといっています。

念々相続する円い南無阿弥陀仏が大行たる南無阿弥陀仏であり、それは始まりも終わりもない。南無阿弥陀仏に始まりもなく終わりもなければ命終だ即生だと分段できるはずがないのです。

清浄なる信の源をたずねれば清浄なる願がある。願が成就されて信が回向されるとき、分段の南無阿弥陀仏はない。それなのに分段の南無阿弥陀仏があるのは、私がお念仏を我がものにするからです。

いくら改悔し、あるいは批判されようが、凡夫である限り間違わなくなるなどということはありません。改悔しようがしようまいが大行たる南無阿弥陀仏は行ぜられてあります。

大行の大行たることは、如来の真実信心に因ります。それをどう受けとめるかが問われるのは、まったく別のことです。いただけるかいただけないかということに尽きるのです。