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聖人と仰ぐ (11/26)

願 清浄なれば、信 清浄なり。

如来の真実信心があればこそ、南無阿弥陀仏とはたらいてくださるからこそ、私がすくわれる道があるのです。如来がこの私一人(いちにん)をすくうためにはたらいてくださっている。

私をすくってくださる道は他になく、ただその道だけが私のすくわれる道である。如来のおはたらきによって、間違いなく往生を遂げさせていただくのである。

正信偈の中の一句から教行信証全巻にいたるまで、親鸞聖人はそのことだけを確認するために記されたのであったといっても過言ではないわけです。

自らは非僧非俗とおっしゃった一人の人間である親鸞さんを聖人と仰ぐのは、我が身も如来の真実信心によってしかすくわれるということのあり得ない者だと思い知らされ、そういう者でも、そういう者だからこそ如来がはたらいて下さると教え示して下さったからです。

いわなければよいことを言えば、すくわれざる者がすくわれる者へと転換させられる。こういうことも変易生死といわれることなのか、私には詳しくは分かりませんが、すくわれざる者としての生が南無阿弥陀仏によってすくわれるべき者の生へと転換される。

すくわれざる者の生は、如来の大悲のなかにありながら南無阿弥陀仏を離れた分段生死の生であり、南無阿弥陀仏もまた分々段々の南無阿弥陀仏です。

すくわれるべき者としての生は南無阿弥陀仏のなかにあり、南無阿弥陀仏が念々相続する生です。こういうことから前念命終後念即生ということもできるのだと思います。