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ガイド (11/25)

たとえば、これはあまり適当なたとえでないかも知れませんが、バスガイドさんが観光名所の案内をなさいます。右手に見えるのはといって左手をあげながら、右手に見えるのは東京タワーで、高さがこれだけあって、いつ建てられて云々と案内をなさるのですが、慣れた口のガイドさんは、自分の発する言葉を自分は聞いていらっしゃいません。もちろん東京タワーは見ておられません。

如来の真実信心とはこういうことだ、南無阿弥陀仏にはこういういわれがあるのだ云々と「ガイド」をなさる方がいらっしゃいます。観光名所の案内のガイドさん同様、自分の言っていることを自分で聞いていない。聞いていないというより、聞けない。もちろん、しっかりと向き合えていない。

自分の言っていることにしっかり向き合わず、自分の言っていることを自分が聞けていないような時には、聞く側はまさに景色を見るようなもので、自分のこととしては受け取れません。慣れた口は言葉から意味をなくしてしまうと昨日書きましたが、言うべきことが口に慣れてしまうと、言わねばならない理由が失われます。

なぜ如来の真実信心ということを言わなければならないのか、南無阿弥陀仏のいわれを言うのはどうしてなのか。その理由をうしなってしまえばただの案内であり、説明にすらなりません。

案内を聞かされて、さて、はいはい、そうですか、そういうものなのですね、と。何かの行事の日時日程でも案内されて、忘れないよう予定表に書き込んで、その予定表を持っていれば大丈夫。あるいは、東京タワーの高さはこれだけで、いつ建てられてということをメモして、人に尋ねられでもしたらメモを見て応える。予定表があって有り難い、メモしておいて助かった。

それで済むはずがないのです。そんなものは少しも有り難くないし、そんなもので決して助かりなどしないのが、ややもすればガイドをする私であり、ときとして案内を聞くだけの私であるのです。