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慚愧 (11/24)

慣れた口は、言葉から意味をなくしてしまいます。

たとえば朝の正信偈のお勤めでも、勤行本も見ないで慣れた口で何か他のことを考えながら勤めると、気がつけば最後までいってしまっていて、途中のどこかを抜かしたんじゃないかと思うほど早く終わる感じます。

大経でも毎日朝夕お勤めすると、ひと月も経たないうちに口が勝手にお勤めをするようになります。そういう意味で、慣れた口は言葉から意味をなくしてします。

大経にしろ正信偈にしろ、本来はいただくものです。お釈迦さまの教えをいただき、親鸞聖人のお導きをいただくものです。

勤行といっても、経本や勤行集を持ち、それを拝読するのが本来の勤行で、覚えているから本を見ないということはありません。

ところで、南無阿弥陀仏は大行であり、「はたらき」であって、決して人間の言葉ではありませんが、慣れた口はそのはたらきを言葉にし、さらに言葉になったものから意味をなくします。

仏の智慧がはたらきとなって現に私の口を割ってはたらいてくださっている。それを慣れた口が言葉にしてしまうと、その言葉は我がものになります。遍数を重要視したりするのは、すでに我がものとしている証拠でしょう。

遍数を重要視するというような分かりやすいことならまだよいのですが、私たちは様々なかたちで大行であり、はたらきであるお念仏を我がものにします。

慚愧ということがあらねばならないのは、まずはここのところではないかと思います。