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世間道 (11/23)

たとえば、誰かに会って「あなたのことは忘れました」と言う人がいるとして、それはどういうことになるのでしょう。

本当に忘れていたら、初めましてとでも言うのではないのでしょうか。ですから、こういう場合の忘れましたということは、忘れていないということになるのではないでしょうか。

本当に忘れたわけではないのだけれども、忘れたことにしている。忘れたいと思っても忘れられないことを、忘れましたと言い表している。そういうことになるのではないでしょうか。

言っていることの文字面(?)と実際に意味する内容が裏腹であることは、意外と多いようです。言っているご本人さんは裏腹であることに気づいていない場合がほとんどで、実に興味深いです。

言葉を操っているようで、実は言葉に操られているということも言えるように思います。パソコンなら、パソコンを使っている人もいれば使われているとしか言えない人もいるようですし、ゲーム機というのでしょうか、ゲームで遊んでいる人もいればゲームに遊ばれているとしか言えない人もいるようです。

世間道というのは人を道具にする。具体的に誰が人を道具にするのかといえば、人がです。人が人を道具にする、そういう場を世間道という。そう言ってもよいと思います。

道具にする人と道具にされる人というのが分かれているのでなく、時と場合によって人は人を道具にもするし、人によって道具にもされます。修羅場という言葉がありますが、往々にして世間道は修羅場でもある。どこかの誰かの話ではなく、この私の身を置く場の話です。

世間道に対して言えば、仏道というのは人を仏にするはたらきの場である。如来の大悲が人にはたらいて、私がいるのではなくて如来が私になっていてくださるのであることを知らしめて下さる場である。そういうことが言えると思います。

忘れてはならないことは忘れるのに、忘れてしまいたいことは忘れられない。それが私たちの常です。

如来が私となっていてくださることは、一度は確かにそうだと思わせていただけたとしても、見事に忘れます。人に道具にされたことや人を道具にしたことは、腹立たしいこと、恥ずべきこととなって、忘れてしまいたいと思っても忘れられません。

慚愧ということを耳にしますが、私が慚愧すべきは如来のご恩を忘れることについてであり、決して腹立たしく思い続けることや恥ずべきことをし続けることに自分が気づいたところにあるのが慚愧ではありません。

腹立たしく思い続けることや恥ずべきことをし続ける自分に気づくところに慚愧があるというのであれば、文字面と内容が裏腹であることに気づかないまま、言葉に操られているに過ぎないのではないでしょうか。