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念仏とは (11/22)

なんまんだぶつがあったからこそ、ここまで生かせてもらうことができたとおっしゃるばあちゃん。聞く人によっては、それはもうそのばあちゃんの口癖で、取り立ててこれといった意味はないんだと思われるかも知れないけれど、少しそのばあちゃんのことを知っている人なら、決してそうでないことが分かる。そういう90歳近いばあちゃんが居られます。

私がお寺の仕事をさせていただくようになった時には、この方はもうおばあちゃんでして、このばあちゃんのご主人の葬儀で、私は初めて導師をさせていただきました。今もお元気で、よほどのことがない限りお講さんにもお参り下さいます。

9月のお講さんの後だったでしょうか、このばあちゃんが私の所へいらっしゃって、何やら袋の中から封筒を出されました。ご主人の葬儀の時の写真が2枚入っていて、一枚はお通夜でお文を拝読しているところ、もう一枚は葬儀で、私は七條袈裟をつけています。

葬儀の時に親戚の方が撮られた写真をしまい込んでおかれて、偶然に見つけて、見てみたら私が写っているのが2枚あったので持ってきたとのことで、もらっておいてとおっしゃるのでいただきました。

その写真をまた私が手提げ鞄に入れて忘れてしまっていたのですが、見つけました。30を少し過ぎた頃の、若い私です。思い返してみると、この頃は僧侶のなりをしていても、僧侶とは言えなかったです。

それでは今は僧侶と言えるのかと自問してみると、さて、どうなんだろう、と。そもそも何をもって僧侶というのかということも、難しいことです。得度していれば僧侶だと言えますし、けれども、得度はしていても一度も衣に袖を通すこともなく、商売などをなさっている方も居られます。

考えてみれば何をもって親というのか、何をもって人というのか、言葉の定義自体が難しいものばかりです。万人に通用する定義を持つ言葉もあるでしょうが、言葉というのはだいたいが難しいです。

若い頃に友人たちが議論するのを聞いていたりして、概念規定というのでしょうか、それが異なるために議論になっていないという場面に何度かであったことがあります。

また、戯論というものがあり、これを徹底して排されたのは龍樹菩薩だったと記憶していますが、戯論が戯論であると理解できない人との議論、論争は想像しただけでも疲れてしまいます。議論というのは、時には必要不可欠なものですが、体力もなければできないことです。

さて、ところで、念仏とは何だといえばいいのでしょう。もちろんお聖教のどれとも齟齬のない意味を規定することは可能なのでしょうが、そういうことではないお念仏とは、ということです。

80歳90歳になって、振り返ればこれとであえたから生かされることができていたんだと思わせる力。・・・こういう言い方には一種の逃げがあるようにも思いますが、しかし、それにしても、何かほかにこんな力はあるのでしょうか。

30歳を少し過ぎた、身なりだけが僧侶の者がただ口に言うのでなく、顔も手も皺だらけのばあちゃんが、そうとしか言えない、それだけは言える、そういう力は他にあるのでしょうか。

ほんの3段の本堂にあがる階段を10分以上かけなければ上れないばあちゃんが、今までも今もお念仏が生かせていてくださるとおっしゃる時は、実に力強いのです。