表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

変わりゆく (11/21)

うちのお寺での報恩講が済んでから一ヶ月少しがたち、今度は秋の法要です。裏山の様子もすっかり変わっていて、あかい紅葉、黄色いイチョウ、緑の雑木、色とりどりです。

本当ならこの時期に報恩講をお勤めした方がよいし、事実十数年前まではそうしていたのですが、何やかやと町や商工会や公民館の行事が後から後からできてきて、二日間の日程をとることが、お参りの方に不都合となってきました。

本当はそんなことを言っていられないのです。この田舎町には本願寺派、大谷派あわせて50を超えるお寺があって、この時期ならどこかのお寺でお座があるのですから、町の文化祭、老人会の文化祭、商工会の産業フェアよりもお寺にお参りして下さるようにしなければいけないのです。

十数年前までは、新しくできた行事とうちのお寺の報恩講が重なっていても、頑なに時期の変更を拒んでいました。うちのお寺の門徒会の会長さんから、門徒会の総会の席で、お参りが少なくなるし、手伝いをして下さる方たちから変更してもらいたいという要望があるということを聞かされて、致し方なく変更したのです。

このときの門徒会長さん、この方がおっしゃるのでなければ、変更はしなかったかも知れません。仏法をあるじとし世間を客とする(でしたっけ?)、まさにそういう生活をなさっている方で、忸怩たる思いを抑えておっしゃっていると、そう感じたのです。

ネットであちこち「お回り」をしていますと、お参りが少ないと言っているだけで、お参りして下さるような努力をしないことを批判なさっている文章に出会います。それは確かにその通りですが、若い人の多くがすでに他市町へ転出してしまっていて、町の大通りから裏通りまで至る所に更地ばかりがあるこの町では、現状を維持することさえ難しいのも確かなことです。

変わりゆくということは変わりなく変わりゆくということです。変わりゆくのが常であるということです。変わりないのは、法が行ぜられてあるということだけです。