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分別 (11/20)

11月16日に論考の中の一部分を抜き書きさせていただいた新宗教団連合編『親鸞』の中の竹橋太師の「本願」は実に興味深い。

たとえば、こういう意味も知らないままにこれまで何度も「分別」という言葉を使ってきた私などには

(抜き書きここから)
分別とは私たちが普通にする認識のことで、何かを「私が」理解したり、推測したり、決めたりすることである
(ここまで抜き書き)

というのは、新鮮であり、教示に富んでいる。

もちろん一般的な意味、辞書的な意味での「分別」という言葉もあるわけで、それを仏教のなかで使うことが間違いであるわけはない。

ただ、法話のなかで、一般的、辞書的な意味で「分別」という言葉を使うことには、問題がある場合とない場合があると思う。

敢えて言わせていただくとすれば、ネット上にもたくさんある教養としての真宗の教えの説明や、時事的な話題を真宗の教えから説き明かそうとするお話に登場する「分別」は、ほとんどの場合、問題があると思う。

たとえば、『自分が正しく他者が間違っているという自己中心的な分別を離れなければならない』というような趣旨の言説は、道徳を説くのであれば構わないのかも知れないけれど、真宗の教えを言うのであれば、問題があると思う。

真宗の教えとして間違いである以前に意味を成さない(と私は思う)そういう種類の説明やお話は、多くの場合、それでお終いになり、そのことが結論となっている。

竹橋師の言葉を借りるなら、「自分が正しい、彼が間違っている」というのは、正邪以前に自と他を言うことが分別なのであり、自と他を言っていることを不問にして正邪を言うことは、真宗の教えとしてまったく意味を成さない。

意味を成さないことの言い逃げを読んだり聞いたりすると、頭の中はクエスチョンマークだらけになる。それが逆に、自分がいて自分が認識していることを教えてくれるのではあるけれど。

ありがたいことに、南無阿弥陀仏は頭脳にはたらいて下さるのではない。